SSブログ

アンサンブルレッスン(4-15) [アンサンブルレッスン記録]

ホフシュテッター(伝ハイドン)の弦楽四重奏のアンサンブル。

自宅で練習していたらもうバスの時間。
一本バスを遅らせて参加。

練習室についたら、「お休みかと思いましたよ、あなたはいつも早いから」と言われる。
いつもグズグズしているので、「早くくるひと」と思われて、少し気分がいい。

さて、練習の過程でどんどんよくなっていく。先生、指導がお上手。
易しい曲とは言え、まともな弦楽四重奏の曲を課題にできて、先生もやりがいがあるのだろう。そんな気がする。

楽しいな。もう少し練習しておこう。
nice!(0)  コメント(0) 

発表会の曲 [アンサンブルレッスン記録]

発表会の曲をもらっていた。
ヴィヴァルディの2つのバイオリンのために協奏曲。RV522。
「調和の霊感」に入っている曲。

「弾けるようだったら参加しませんか」と言われていた。
少し練習したら「なんとかなるかも」と思い、やりますと答えていた。

多少練習して、雨の中、出かけていって、今日がその初練習。
途中で置いて行かれるかもと思っていたが、なんとかついていけた。
それでも、音程の悪さ、演奏技術の低さを痛感している。
本番まで練習が必要。
16分音符が並ぶところが途中にあり、先生に「ここだけは必死で練習してきて」と言われる。なんども強調されていた。うまく弾けない部分があり、指を変えた方がいいかな、と思い始めている。

次回の練習は、結婚式の余興曲をする。これも猛練習が必要。
nice!(0)  コメント(0) 

吉田秀和『名曲の楽しみ モーツァルト 5』を続けて読む。 [その他]

吉田秀和『名曲の楽しみ モーツァルト 5』を続けて読む。

とうとうモーツァルトの人生も終わった。
この本の中にも疲弊した影が見られて哀しい。

モーツアルトは金策のために、半端仕事にも手を出す。
かなりたくさんの、いわばその場限りの書き捨てみたいな踊りの曲を書くことになります。


(モーツアルトは)一人で寒いところで、貴族たちが踊る余興のための音楽を書いていたのかなあと想像すると、何か言い知れない感慨がわいてきます。

「六つのドイツ舞曲」(k.536)について。
まあ中にはきれいなところもあるけど、誕生日にこれを書いているモーツアルトがそんなに楽しかったかどうか、僕にはわかりません。

晩年の作品の分析をいくつか引用する。
まず、モーツアルトの弦楽四重奏の特徴分析。

モーツァルトがこの年、弦楽五重奏を急にまたやり出した理由はよくわからないんですけど、やってみた結果から言うと、モーツァルトの弦楽ばかりの室内楽の中では、弦楽四重奏よりもむしろ五重奏のほうが成功したんじゃないかと言う人があり、僕もそんな感じがいたしますね。というのは、四重奏曲だとハイドン流の非常に緊密な合奏と言いますか、上の音から下の音まで全部、音の質が緊密にそろっていて、それこそ水のもれる隙間もないような、緊密な組み合わせの美しさが特徴になっている。


そして、五重奏の特徴分析。
けれどもモーツァルトの行き方は、そういう構成的なきちっとしたものもできないわけじゃないけど、そこからちょっと外れて、集まったところと、隙間って言っちゃ悪いけど、非常に風通しのよいところとが交代に出てきて、全体に旋律の美しさが、まるで風が通うように出てくる。そういうモーツァルトの天才の自然な表われということになると、きちんとしたものからもう一歩どこか外れたと言うか、踏み出したと言うか、そういう編成のほうが成功しやすかったんじゃなかったか。弦楽五重奏はそれにあたったんじゃなかろうか。あとでクラリネット五重奏曲とかいろんなものが出てきますけど、そういうものもまたよかったんじゃないか、まあこんな風に僕は思うんです。


図書館から借りて読んだけど、買おう。

nice!(0)  コメント(0) 

吉田秀和『名曲の楽しみ モーツァルト 4』を続けて読む。

吉田秀和『名曲の楽しみ モーツァルト 4』を続けて読む。名作が多数ならぶ。

『フィガロの結婚』を中心にして書かれている。
このオペラの中の「自分が自分でわからない」について。
アレグロ・ヴィヴァーチェの、まるで風のように来て嵐のように去っていくという歌のくせに、一度聞くと絶対に忘れることのできない、そういう歌ですね。全曲を通じても屈指の名曲でしょう。


それと、次の箇所が面白かった。
モーツァルトのオペラにおけるフィナーレというのは非常に大きな役目を持っていまして、音楽がずっと続いていて、その中でいろんなことが起こる。これはモーツァルトのオペラのひとつの特徴で、それ以前のオペラというものは、歌があるとそれは大抵「私は誰々が好きだ」とか「とても苦しい」とかいろんなことを言う。その間は劇の進行が止まっているわけです。ところがモーツァルトの書いたオペラは、事件がどんどん流れるように、とんとん拍子で運んでいく。その間それが音楽になって流れていく。逆に言うと、音楽は事件を運びながら流れていく。それがしかも短い音楽じゃなくて、何十分にわたるような音楽が、ずーっと持続して書かれる。それが特にこのフィナーレにあるわけです。


この「フィガロの結婚」の第二幕のフィナーレというのも、その典型的なもので、九三七小節という大変な長さの音楽になっていて、その間にどんどんいろんなものが出てくるのに応じて、音楽も変わっていく。「よくもこんなに何でも音楽で書けたものだ」と思って感心しますねえ、僕は。


nice!(0)  コメント(0) 

吉田秀和『名曲の楽しみ モーツァルト 3』読後感 [その他]

吉田秀和『名曲の楽しみ モーツァルト 3』を続けて読む。かなり有名な曲が出てくるようになった。
この「イドメネオ」がオペラ・セリアの歴史を通じての第一級の傑作である、またモーツァルトが書いたオペラ・セリアの中でも最大の作品であるということはたしかであるにもかかわらず、十九世紀を通してそんなに人気がなかった。(中略)そのことに理屈をくっつけるとすれば、モーツァルトが本当に張り切って、たっぷり十二分に彼の才能の全部を尽くして書いたというところに、かえってその理由があるような気が、僕はするんですね。というのは、あとのものになってくると、やっぱりモーツァルトは非常にすばらしい音楽を書きながら、書き過ぎない。そうしてあるところは暗示でとどめたりなんかする。それがモーツァルトという芸術家のひとつの特徴になって、たとえばベートーヴェンなんかと違うところ。決して行き過ぎない作曲家になりますよね。

この記述に惹かれました。
nice!(0)  コメント(0) 

アンサンブルレッスン(2-27) [アンサンブルレッスン記録]

アンサンブルレッスンの日。
ヴィオラの新人さんが来ていた。嬉しいな。古株の人は来なかった。こちらは残念。

曲は「アヴェマリア」(伝カッチーニ)。これを仕上げた。
今までで一番上手に弾けた。みなさん、よく頑張りました。
強弱をいろいろ教えてもらった。
人の響きを聴きながら弾くということがまだ苦手。

次回は別の曲をするらしい。曲は未定だが、編曲モノではなく、弦楽四重奏の曲をするとのこと。嬉しいな。
nice!(1)  コメント(0) 

スキーに行く

スキーに行く。
深夜バスに乗って行くが、疲れるね。
裕福なスキーツアに参加したいものである。

さて、今回はレッスンを受けることにした。いつまで経っても「中級の入り口」で終わっており、板が安定しない、あるいは、パラレルにならないからである。

レッスンを受けたら、受講生は私ひとりであった。
お得だ。
2時間を1人で独占したのだから有意義であったが、先生はやや持て余していた感が有る。

教えていただいたのは以下の通り。
・昔の板と違って今の板は簡単に方向が曲がる。だから、足の力を加えるだけで曲がる。
 インストラクターからは、「いつごろ習いました? だいぶ前? やっぱり。昔の指導法で習った感じがする」と言われる。
・ストックの使い方が悪い。曲がる時、回転の内側に突く。
・「ハ」の字型のターンを繰り返し、少しずつ「ハ」をパラレルにしていく方法もある。

他にも有ったが、今の私には不要。
もう少し練習しよう。
nice!(0)  コメント(0) 

吉田秀和『名曲の楽しみ モーツァルト 2』読後感 その2 [その他]

吉田秀和『名曲の楽しみ モーツァルト 2』のなかで、モーツァルトの性格に触れた部分が有ったので書いておく。

ここがモーツァルトのちょっと残念なところなんですけど、他の音楽家の演奏をきくと、モーツァルトはたいてい悪口を言いますねえ。手厳しい評価をする。まあ残念と言ってはいけないのかもしれません。モーツァルトのような大天才の側からみれば、たいていの音楽家のやっていることはつまらないんでしょうけどねえ。このフィッシャーの演奏も彼の手にかかると、あるいは彼の口にかかるとコテンコテンですな。ただ何しろモーツァルトという人は、天才のすばらしさに比べて、生涯はそう幸福とは言えませんよね。だからその人が苦しい生活の中にいて、他の音楽家のやっていることを手厳しく批評すると、なんて言うかなあ、自分の不平がこういうところに出たかしらって、ちょっと悲しい光景のようにも思われます。まあこれは余計な話。


モーツァルトという大天才とは距離があるが、私も気をつけよう。
nice!(0)  コメント(0) 

吉田秀和『名曲の楽しみ モーツァルト 2』読後感 [その他]

吉田秀和『名曲の楽しみ モーツァルト 2』を借りてきた。
その読後感を書く。

1772年からの話なので、16歳くらいからのモーツアルト。
まだまだ有名な曲は少ないが、個性が花開いていく過程を取り上げている。

いくつか、面白い記述があったので、引用しておく。

まず、モーツァルトの弦楽四重奏の話。
僕はいつか、素人の仲間同士で弦楽四重奏をやっている連中の話を聞いたことがありまして、「どうしてあなたがたはモーツァルトの弦楽四重奏、ことに若い時の四重奏曲をあまりやらないんだ?」と言いましたら、その人は音楽の歴史家でも何でもないわけだけど、こう言っていましたね。  モーツァルトの弦楽四重奏曲は、一人一人、自分たちのパートを弾いている時にはそんなに難しいと思わない。だけど、四人で合わせることになったら何か難しい、合いにくいんですって。それで非常に苦労して苦労して、きちっと合うようにして弾いてみると、またちっともおもしろくない。


そして、ハイドン。
ハイドンのカルテットには一人一人のパートに、何回も何回も練習しなきゃ楽器に乗りにくいようなところがある。だけどそこのところだけ気をつけてよく弾いて、四人が顔を合わせてやってみると、はじめからピタッといく。それはハイドンの若い時の四重奏曲から、ずっと年をとっての傑作にいたるまで、ずっと同じだって言うんですよ。弦楽四重奏を弾く喜びというかね、そこに実にうまく乗るように書かれている。それでつい、同じように弾くのならハイドンのほうをやっちゃう。家でゴシゴシーーゴシゴシと言っちゃ悪いけどーー練習していくと、四人で合った時、本当に音楽を楽しむことができる。


モーツァルトの話に戻って。
モーツァルトはさっき言ったように、一人一人でやる時はそんなに苦労しないので「まあ、これだけできればいいだろう」と思って、四人でやってみると今度は合わなくて、もう苦心惨憺する。やってみて苦労しただけの出来になるかというと「そういう風にえんそうしたんじゃだめで、もっと違う演奏の仕方があるんじゃないかな」と思わせられちゃうっていうんですね。だから苦労したわりに欲求不満になっちゃう。


で、ベートーヴェンは個人で練習しても合わせても難しいとの由。

ハイドンをやってみたいな。
nice!(0)  コメント(0) 

吉田秀和『名曲の楽しみ モーツァルト 1』読後感

吉田さんの本を図書館から借りて読んでいる。
いま読んでいるのは、『名曲の楽しみ モーツァルト その音楽と生涯 1』(学研)である。
まだ第一冊目。若い頃の作品が並んでいて、それほどなじみのある作品はいない。しかし、そこに並んでいる作品の多くはモーツアルトがまだ8歳とか9歳とかせいぜい12歳ごろまでの作品で、それも、ピアノ小品レベルでなく、交響曲とかオペラとか、そういう本格的な作品が並んでいて、驚愕するしかない。
なかで、ディベルティメントk.136は、弾いたことがある。若々しい、溌剌とした曲。
弾いた時は、「こういう曲を弾けるようになったのか」という感慨がこみ上げたものだった。

さて、この本を読んでいて、面白いと思った箇所があった。
余計なことを申し上げますけど、作曲というものは、それをしなければ生きていられないような人じゃなきゃ、したって意味ないと思うんですよね。なくてもいいのに、何かまあ、好きだからやってみましょうかっていうのではないんだと思うんです。そういうことをいうと、音楽家の数なんていうのは世界中で一挙にガクンと減ってしまうでしょうけど。ま、余計なことを言いました。

ちなみに、k.136の曲紹介では以下のように書いてある。
この主題をきけば、皆さんがたはすぐ「あっ、あれだ」と思い出されると思うんですけど、一度きいた人だったら忘れることのできないような見事な、何とも活発で、生き生きと新鮮な音楽として書かれています。ですが実際にはとても簡単なものでしてね、ただ「ソミド」という、「ドミソ」の反対の下降アルペジオで書かれている。音符の長さがはじめは長くて、それがだんだん、だんだん、短くなっていく、その分割の仕方の美しさでしょうかね。これもモーツァルトの若い時の作品の中でも、今日飛びぬけて多くの人たちから愛される曲のひとつになっています。展開部になってから一度短調に移りますけど、そこのところもまた、いかにもモーツァルトらしい繊細な美しさに満ちています。

イ・ムジチ弦楽合奏団の演奏でききます。僕はいつか実演をききましたが、イタリーのヴィヴァルディや何かの曲があって、最後にイ・ムジチの人たちがこの曲を弾いたとき、もう本当に新しくて、十八世紀の音楽の中でも、いかにモーツァルトが新鮮な、新しい世界を切り拓いたかということに感嘆したものでした。

図書館には、このあとの2巻以降も予約してある。早く来るといいな。
nice!(0)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。